1. トップ
  2. 活動報告
  3. 2006年活動報告
  4. シンポジウム

活動報告

■シンポジウム「芸術からみる、環境の次代-都市・自然・未来-」
 
リレートーク2「芸術×自然」をめぐって
「人間と自然と音楽を結ぶもの」

   9月24日(日) 14:00〜15:00/100周年パビリオンステージ
井上堯之氏(ミュージシャン)

司会  
次のゲストはミュージシャンの井上堯之さんです。井上さんは、かつて「ザ・スパイダース」のボーカル、リードギターとして活躍され、スパイダースの解散後はバンド「ピッグ」を結成、さらにその後は「井上堯之バンド」のリーダーとして活躍され、最近では作曲、編曲、ライブなどの音楽活動の他、映画に出演されたり、自叙伝を執筆されたりするなど、多彩な活動を続けてらっしゃいます。
井上さんには、「人間と自然と音楽を結ぶもの」というテーマでお話をしていただきます。また、今日はお話だけでなく、ギターの演奏と歌も聴かせていただけるということですので皆さんどうぞお楽しみに。
それでは井上堯之さんお願いします。

井上
皆さん、こんにちは。井上堯之です。今日、私に与えられたテーマは「自然と音楽を結ぶ」です。ミュージシャンですから、本当はお喋りするより全部演奏したり歌ったりしたいのですが、どうしても30分は喋らなきゃいけないようです。でもまずは、この時間を皆さんと共有させていただくためにいきなり一曲やっちゃいます。さっきちょっとここでリハーサルっぽいことをやった時に、あ、やっぱりこの曲のイメージだと思いました。日ごろ、環境アートの制作や環境芸術教育に携わっておられる皆さんのお気持って、ひょっとしてこういう曲のイメージではないかとリハーサルやっていて思いましたので、その曲から始めようと思います。
(曲の演奏)
たくさんの拍手をありがとうございます。最近、私は高等学校あるいは中学校で、こういうふうに講演に招かれることがあります。今の子供達は悩んでいる、教員、先生方もまた悩んでいる、だから井上さんがライブをやって、そのときに喋っていることを是非うちの学校でも話してくれないか、というような要望があり、各地の学校で講演をしながらライブをやったりする時間を、この年になって得ております。
こういうふうに喋らなきゃならない機会のあることは私にとっては勉強しなきゃならないことであり、何を喋るかであらためて自己確認をしなければならない時間であり、非常にありがたいことだと思っております。そういうわけで、今から不慣れな環境問題についておしゃべりしますので、30分程おつきあいいただきたいと思います。
あるとき、私自身が環境問題に初めて関心を持ったというよりは、関心を持たざるを得ない機会がありました。それは私が肝臓を悪くして病院に入ったときのお医者さんとの会話でした。「肝臓が悪いですよ」といわれ「ああそうですか」ということになりました。「原因は何ですか」ということになって、結論は当時、まださほど話題になっていなかった「界面活性剤」だということになりました。界面活性剤は、当時のあらゆる洗剤の中に入っており水と油を解け合わせるものです。どこの料理店でも食材や食器をこの洗剤で洗います。 だが洗剤を洗い流すためには水を出しっぱなしにして、洗ったあと最低5秒間は流さなきゃいけない。しかし飲食店などではそんなこと不可能です。「レストランで出す食品には界面活性剤がいっぱいくっついているはず。だからなるべく外で食事をしないほうがいい」というわけです。そういう話を聞いたのはそのときが最初で、今から30年前です。それで我が家では洗剤を使うのをやめようというふうに致しました。食器がきれいに洗われなくてもいいじゃないか。それからしばらく経ってから「台所の流しは海の入口である」ということがコマーシャルの中でも言われるようになりました。
私は、界面活性剤という存在を知ったことによって、自由にものを食べるわけにいかないという環境に自分が立ち入ったわけで、それでは食べるものが全く無いということに気がつきます。何を食べていても体に悪いんじゃないか。そういうことに自分が抵抗感を持つようになりました。そんな馬鹿なことは無いのですが、しかし日本の米はアメリカの農薬の30数倍も基準が緩いといわれました。米を食べるということは体に悪いということになります。体によくないということを思いながらものを食べるなんて最悪ですね。だから私は腹をくくって「有害でも何でもいい、食べたいものを食べよう」と思い、何でも食べるようになります。そういう経験から、人間というのは、やむを得ず、否応なく食べざるを得ないのだと思いました。
現在、インドでは水資源の枯渇から有害な水であることがわかっていながらもそれを飲まざるを得ない。これは大変切ないことですが、やはり人間が日常を生きるという中で選択せざるを得ないという現実があるわけです。このことこそが実は非常に大事な話なのです。人間には否応なくそうせざるを得ないことがあるということです。私にとっての環境問題とは何なのかを考える原点がここにあります。
では、人間によるこの地球の環境汚染は一体いつから始まったのか。極論を言ってしまえば、それは人類が誕生した瞬間から始まってしまっています。そして人類は加速度的に進化を続けていきます。人類の初期、例えば原始時代といわれている時期には、地球の自浄作用の能力の範囲内において十分に間に合った、また進化の加速度的時間で言えば、原始時代は最も長い時間だったかもしれない。そういうふうに考えると、例えば戦争があったとして、その戦争の期間をその戦争の始まりから終わりまでを分析する専門家はこの世の中にたくさんいます。しかし、その戦争が始まる前の時代というのがあり、さらにその前の時代があり、またその前の時代がありました。こういうふうに考えて行くと、人間は、必ず前世代、その前の世代の影響を受けていく。これはもう確実なことなのです。
どんな思想が始まっても、最初の思想は、みんなで相談してこうしようねという時点ではあらゆる意味で具体性を欠いています。人間は精神状態において同レベルに立つことでわかりあえる。わかりあうということは具体的な言葉は必要なくなる。しかし、その中で時間経過によって必ず思想は変化していきます。変化をすることによって反動が生まれ、反動によって修正が生まれ、修正によって反動が生まれる、というようにどんどん繰り返して、これが輪廻というかスパイラルしていくわけです。
一つの時代の中で一つの思想というものが立ち上がる。「これは人類にとって素晴らしい思想である」といった所で、時間経過とともに歪んでいかざるを得ないのです。その証拠は世界のあらゆる宗教の中でも見られます。分派がいっぱいできてくる。そしていろいろな考え方がでてきて、言ってみれば“とっちらかって”いくのです。広がっていくことによってわかりにくくなる。「もっとわかりやすく」するためにはどうすればいいのか。極論を言えば、現実主義というものが生まれてきます。現実主義は非常にわかりやすいけど、人間の営みは制約があり窮屈になる。そして窮屈な日々を送っていると今度は自由を求めるという反動がおこる。そしてまたそれに修正が加えられる。人間は、こういうことを今日まで繰り返してやってきたわけです。ですから、私は、地球上に人間が立ち上がった時から環境汚染は始まったという考え方です。
最初の大きな環境破壊はルネッサンスの時期だと思います。産業革命は森林の木を伐採して燃やしエネルギーにしました。これが最初の環境汚染です。でも、この時代はまだ地球の自浄作用の能力の範囲だったわけです。そして人間の進化の加速度がその度合いをどんどんあげていく。ということは進化するたびに、進化の度合いにかかる時間は短くなっていく。そういう意味で現代は究極に来ています。こんなにも快適でこんなにも暮らしやすい時代は過去のどこにもなかったはずです。歴史上初めてという所に来ております。
物理学に「エントロピーの法則」があります。簡単にいえば、便利になればなるだけ、人間にとってプラスになればなるだけ、同時に同じだけのマイナスもばらまいていくという法則です。人間の生死においてさえ、「喜びと悲しみ」というのがエントロピーの法則で襲ってきます。例えば生きるこことに喜びを感じたりする人がたくさんいるわけです。しかしよくよく考えてみれば、深い喜びを知った人は深い悲しみがわかる。深い悲しみがわかる人は深い喜びがわかる。だから例え話は適切ではないですけど、無知な人の喜び、無知な人の悲しみの振幅は浅いはずです。という具合に、精神的においても加速度的に深くなっていく道のりが人間の中には当然あるわけです。
環境問題の一つとして、地球温暖化現象を止めるにはどうすればいいのか。京都議定書ではアメリカは最後まで参加しませんでした。京都議定書が立ち上がること自体すでに奇跡的なことでした。世界各国が利害を超えてそれでもなんとかしようという共通の思いをもって京都議定書を立ち上げたということ自体がもう奇跡に近いような出来事だったと思います。ところがアメリカがこれには参加できないという。「考え方としてよくわかる。正しい。だがしかし現状、無理がある」というわけです。つまりやむを得ず参加できないという状況だということが、我々には一番わかりやすいアメリカの選択だったと思えるわけです。
では私達は、空気を汚さないために石器時代はオーバーとしても100年前の生活に戻せるのか。これはやっぱり不可能です。現在のこの快適な経験をしてしまった人間に、今から洗濯は手で洗いましょうとか、そういうことを言っても難しいだろうと思います。実はそういう実験を私も人生の中でやって参りました。例えばシャンプーをしないで2週間いるとどうなるか。私はそういう実験を30年前にやりました。地球の自浄作用と同じように人間の自浄作用です。我々はどうして毎日頭を洗わなければならないのか。どうして毎日体を洗わなきゃいけないのか。どうして女性は化粧品を使わなきゃいけないんでしょうか。本当は、顔を洗わなければ油分を肌に塗り付ける必要がないわけです。
実はこれは正しい選択なんです。だから100年前に戻す以前に、我々はいつのまにか、企業のコマーシャルに乗っているのです。こんなことを言うのは本当に危険なことなんですが、かつては思っていても社会的に言えないことがたくさんありました。つまり、戦後、戦争に負けた日本が再び世界に立ち上がっていくために経済最優先でやらなきゃならない時代があった。だから消費を拡大するためのコマーシャルを受け入れたのです。ここでシャンプーの話に戻りますが、私はやりました。頭を洗わない。3日目、4日目になると頭がかゆくなるわけです。フケは出る。ところが1週間もするとかゆくなくなる。フケも出なくなる。さらに1週間すると、今まで見たこともない自分の美しい髪なんです。ピカピカ、つやつやしてきます。本当は自然の汚れでしょうけども、自然に油が出てくるんです。私はその時に悟りました。そうか、これは企業の謀略なんだと、化粧品だとか風呂に入るのもみんなそうなんだとわかりました。
しかし、社会生活を営むためには否応なく毎日シャワーを浴びます。これはしょうがないですよ。私も毎日顔を洗い化粧品をつけます。しかし本当はそういうことを皆がいっせいにやめたら環境問題なんて一発で解決するんです。だけどそういうわけにもういかない。つまり人間は、これから先もずーっと自然破壊をやってまいります。それを続けていかなきゃならないんです。生きるということはそういうことなのです。これが現代に生きる私達の宿命であり、そして自然が我々に投げかけている忠告、警告、アドバイスなのであり、自然が今私達に伝えていることなんです。
 その昔、心理学者フロイトは「宇宙にはやみくもに生きていこうとする意思がある」と言いました。そして私が最近読んだ本の中で京セラの稲盛さんがやはり同じようなことを言っていらっしゃる。現代は、やっぱり無機的なものの中でさえ、すべては進化の方向へ向かっていると考えざるを得ないし、またそう考えた方がわかりいいと提案されておられます。宗教の世界では、お釈迦様、仏陀は2500年前にこうおっしゃっています。「万物悉有仏性」、あらゆるものはことごとく仏性、仏の心を持っている、すべてのものに意思があると。
なぜこんな話をするかというと言えば、自然というのは人間の心の反映をそのまま表しているからなんです。よーく考えてみてください。私達が今、快適な文化的な科学の進歩により、こうやって豊かな生活を享受しています。そして自然は今、そういう我々の心模様に反応しているのです。いってみれば自然破壊の兆候です。つまりそれもこれも人間の心の現れであるといえます。仏陀は2500年前に「唯心所現」という言葉を使われています。すべては心の現れであるということです。この世にあることのすべては心の現れであるということです。
環境問題ばかりではなく、世界の現状に絶望される方は少なくないと思います。私達は人類みな平等と言いながら、やはりその国に生まれて、その国の環境、教育、習慣、思想を受けいれれば、私がもしパレスチナに生まれていたら自爆テロに立候補する可能性が大いにあるのです。私は今、65歳になってそんなことはしないと思えるわけですが、それはやはり年月の中で、自分の人生の中でわかることなのです。 
日本経済がいろいろな困難に陥っていたのはなぜか。もともと日本の産業は西洋から学ぶことから始まりました。財閥といわれる企業も、始まりは世の中の人々のためにということから始まったものです。働く従業員のために事業を発展させる、そういうことだったんです。でもそういう思想は複雑で広範囲だから分かりにくい。わかりやすくするためにその思想は変化していきます。その結果、みんな仲よく、皆でがんばろうという時代が続きました。江戸時代、いやその前にすでに日本の武士世界には「藩」というものがありましたから、明治に入って会社に忠誠を尽くすということには非常に慣れていたんです。日本には藩があったから、それが国家になった時、はじめはやっぱり動転するわけです。国というイメージがまだなかった明治維新でもそうです。国という概念を持った人と、そういうことに全く関心がない人とではおおきな違いがあった時代の話です。
現代の経済界はもっとわかりやすいことに集中していきます。それは売り上げです。「売れれば文句ない」という一番わかりやすい形に持ってきたわけです。しかし「企業メセナ」の時代も過ぎて、いわゆるリストラ時代に入ります。リストラというのは元来は「クビにする」ということではなくて「企業を再構築する」という話です。でも企業を再構築するために人員を整理する。これは一番わかりやすいことなんです。
こと芸術の世界でもすべてそうです。音楽もCDの枚数が売れたものが一番なんですね。よく考えてみて下さい。ピカソの絵や、ゴッホの「ひまわり」は何十億円です。しかしゴッホは貧しかったわけです。それから時間が経って彼の作品は54億円になりました。あれは原画だから高いんです。「ひまわり」の絵を1億万枚刷って1枚50円で売るというのが日本のレコード会社の話なんですね。では音楽の世界で、私が原曲を売るといったって、誰か代表して買ってくれますか。「そうだな3万円なら原曲を買うよ」というくらいです。その曲を買った人が例えば1枚100円で300枚売る、それ以上売れたらその人の儲けとなります。芸術の世界でもそういうふうにゆがめられてきているわけです。
環境問題に返りますが、これから人間はますます環境を汚していきます。そうしないと生きられないという現実があるからです。京都議定書に賛成しなかったアメリカの言い分がそこにあります。これは非難できません。非難する資格は我々にはありません。なぜか、我々もそれに加担しているからです。そういうことになると、台風でも今までにない台風だぞとか、気候も異変が起こっているぞというように、私達一人ひとりに問いかけるような自然現象が起こっているのが現代なのです。それでも私は思いたいのです。人間は必ずこの問題を克服しますと。それは決して希望的観測ではないのです。
人間の歴史を見るだけでも、人間はここまでやってきたんです。たしかに余分なものもいっぱいつくりました。でも医療機器一つにしても、患者のためにここまで発展して来たのです。この進化を止めようはないわけです。例えば、胃カメラを飲むのだって、最初は太いケーブルだったのが今や直径数ミリです。どれだけ患者としてありがたいかという現実があるわけです。15年前に戻ってこんなでっかいカメラを呑みこもうとしてもてやっぱりできない。つまり我々も環境汚染の加担者であるのです。これからもそうです。でも私は、人間がこれまで進化してきたように、必ずやオゾンホールも解決するでしょう。そして、地球温暖化問題も必ず解決すると思います。
その理由は後ほど結論で申しますが、我々にはもっと恐れなければならない問題があります。環境どころの話ではないのです。それは、今我々が確かだと思っているこの大地は本当に確かなんでしょうか。ひどい地震があった。おおきな津波があった。そして環境汚染で海面があがって島が沈みそうになっている所が現実にある。そんな時代の中で、この大地は確かなものなのでしょうか。答えはノーです。太陽もいつかは死の星になります。地球はおろか、この太陽系もいつか滅びるわけです。そういう不確かな世界に生きる人間は、それでも人生において確かなものを求めざるを得ない。なぜならば、人間が精神的な生き物であることはどなたも否定されないと思うわけです。そうすると、「人間とは何か」ということを考えざるを得ません。「人生とは何なのか」「何のために生きるのか」「何を目的に生きるのか」。このような人生の意味が分からない限り自然は反応してくれないということになります。そういう意味で、人間がやらなければならないこと、私達一人ひとりに課せられたその命題を答えていくのに、さあ、これから何千年かかりますでしょうか。
イエスキリストは2000年前に「アガペー」、愛という概念を初めて持ち込みました。今我々には愛という言葉を聞けばそれなりの概念があります。だから愛というのは、男女の愛であれ、家族愛であれ、それをイメージできます。大事なことは2000年前に無学文盲の衆生を、愛などという概念がない時代にイエスキリストが説いたということが重要なんです。そして2000年かかって、愛という概念の憧れのような映画を見たりして、人間が求めてきた愛という形がやっと生まれ始めているということではないでしょうか。
現実の愛というのは、例えば夫婦の愛にしてもなかなか難しいことがあります。何十年のだらけきった愛よりも、例えばですが、ナチスに連れていかれたユダヤ人夫婦が、今まさにアウシュヴィッツ収容所に男女に分けて入れられる、時の「あなたー」「おまえー」という思いは、だらだらと過ごしてきた一生よりは、遥かに深い愛ではなかっただろうかと思うわけです。そうすると、そういう精神的なレベルの話になると、「戦争が悪かったのだ」というだけでは片付けられないのです。人間にはどんな場合も希望があるわけです。アウシュヴィッツの中でさえ、体の弱った人にパンを分け与える人達がいたのです。これが希望というものなのです。
2000年より遥か前の仏陀の時代には無学文盲がおびただしかったのですが、そういう人達にお釈迦様は例え話をされたわけです。「見てご覧なさい、あの泥沼に咲いた蓮の花のように、あんなに汚い所に根をおろしながらもあんなに美しい花を咲かせることができるんですよ。人間を見てみましょう、目には目やに、鼻には鼻糞、汗や大小便。それでも人は、あんなに美しい花を咲かせることができるんですよ」。こういうふうに例え話で説かれたわけです。
そういったことの一つひとつが、2000年、いや2500年かかってやっとこの地上に愛という概念として創られたわけです。それが本当の愛であろうとなかろうとです。ものすごく怖いこと言いますけど、ストーカーだって愛ですよ。歪んだ愛です。狂った愛です。間違った愛です。でも愛なんです。つまりそんな最悪なことまで「愛なんだよ」と自分を恐れながら喋ります。でも人間は2000年以上かかって、やっと愛という概念の種を蒔いてきた。そしてこれから先、この精神的生き物である人間は、今日の環境問題を始めあらゆる諸問題を解決していくための精神的向上はこれからもどんどん進化していくと思います。そういった時に、人類の心にそのまま反応した自然が立ち上がってくるでしょう。それはさっきいいましたフロイトの話でも証明できます。例えば、こういう玉砂利のところに蒔かれた松の種は、センサーを働かせればここにはどの程度の水分があって、自分はどのように育てばいいのかということを、あらかじめわかりながら岩間からこんな小さな芽を出します。つまり知恵があるわけです。やみくもに生きようとする知恵があるということです。
このあと登壇する龍村仁さんの「地球交響曲?ガイアシンフォニー」は、とてもスピリチュアルな映画です。その中に野澤博士が育てたハイポニカトマトが出てきます。ハイポニカトマトに野澤博士は「好きなだけ大きくなってごらん」というわけです。つまり、愛です。人間にもそうです。本当に愛された人間と、そうじゃない人間とでは差があるように、ハイポニカトマトにとっての最良の環境を野澤博士は用意したわけです。トマトの茎というのはだいたい1本にせいぜい10個の実がなる。多くて10個です。野澤博士のハイポニカトマトは、1本の茎から、何個の実を吊るしたと思います?1万6千個です。これは希望の話ではなく本当にそうなんです。だから、食糧危機だって心配することは何もないということになりませんか。
私は、人間には絶対に素晴らしい希望がある。私はそう確信しています。素晴らしい未来、これはあるべきだと思います。そういう時代が来なきゃおかしいのです。人類の過去の歴史を人間の一生に例えれば、多分今は青年期でしょう。20歳くらいだと思うんです。自分の20歳の頃を振り返れば恥ずかしかったこといっぱいおありでしょう?。人類の歴史で老年期を迎えて振り返ったら、あの2006年、2000年近辺は恥ずかしかったなあと思うのではないでしょうか。人生は素晴らしいものではないですか。人間誰しもそうだと思うのです。そういうわけで、人間は希望を持って、がんばる所はがんばって、汚す所は心なく汚していきましょう。皆さん、よろしくお願いします!
私も、こういうふうにべらべら喋るようになっちゃったんですけど、これも一つは歳のせいなのかもしれません。私自身がこの人生で感じた疑問とかそういったものを歌にした曲があります。本当は、環境を意識して自然からいただいた曲をここでやろうと思っていたんですけど、まあ今日はさほどの意味がなさそうなので、今日はやめておきます。それでは、皆さんがよくご存知だと思う曲を一曲やって、お別れしたいと思います。

(前奏)
そうそうそう、喋ることを忘れていたことがあります。音楽という芸術のジャンルには歌という世界もあり、歌詞という世界もあります。例えば昔こういう歌がありました。「長崎の鐘」という曲をご存知でしょうか。作詞はサトウ・ハチローさんです。「こよなく晴れた青空に、悲しと思う切なさよ」僕は子供ながらに何となくわかったんでしょうね。自然を見て、この晴れた空を見て、ああ、生きることって大変なんだなとか、漠然と思ったことがありました。今から歌う曲も、歌詞はお分かりの方もいらっしゃるでしょうけど、「胸にしみる空の輝き、今日も遠くを眺め、涙を流す」。サトウ・ハチローさんの詩です。それではこの曲を歌ってお別れとします。

(歌)

どうもありがとうございました。

司会
井上さん、どうもありがとうございました。環境問題をご自分の体験から身近なお話として語ってくださいました。素晴らしい音楽もありがとうございました。