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活動報告


環境芸術学会第6回大会 特別講演『北からの発信』
 
□特別講演『北からの発信』 (抜粋)     
10月23日(日) 13:00〜14:30/スピカ・アリーナ
講師: 山本 仁(モエレ沼公園園長)


司会 それではお二人目の講師でいらっしゃる山本仁さんをご紹介いたします。
皆様の中には、この初日のエキスカーションですでにこのモエレ沼公園にいかれた方もいらっしゃったでしょうし、私のように札幌に住んでいて、私は比較的ここに近いところにおりますので、たびたび訪れさせて頂いて、大変私にとっても大事な場所なのですけれども、山本仁さんはこのモエレ沼公園の園長さんでいらっしゃいます。
ご存知のように、イサム・ノグチが1988年に亡くなって、その直前にこの公園の基本設計を完成させたわけですが、山本園長さんは、その当初からこの公園の造成に深く関わってこられました。ノグチがなくなってから17年経ってこの7月に海の噴水が完成して、ようやくグランドオープンになったわけでさぞ、園長さんの感慨もひとしおだったと思います。
もともとごみの処分場だったところが、私たち札幌市民が世界に誇るべき公園に生まれ変わりました。今日の世界が抱える様々な問題に対して、芸術がどのように役割を果たしうるのかといったことは、この学会にとっても大変重要な課題でありますが、このイサム・ノグチの公園は、そうした現代が抱える問いに対する一つの回答を与えてくれるもののように思います。
今日は「人々の心を豊かに・モエレ沼公園のめざすもの」というタイトルで、日々この園の管理運営を行いながら、この公園の理念を、世界に対してまた未来に対して、どのように伝えて行くのかといったお話を伺えるかと存じます。
では、山本園長さん宜しくお願いいたします。

山本 ご紹介いただきました山本でございます。先日、伊藤先生初め大勢のみなさまにモエレ沼に来ていただきまして、大変有難うございました。当日は冬の直前でしたが、まだ暖かくて良い時期においでくださったと、感謝しております。
ご紹介にもありましたように、モエレ沼公園もすでに歴史的な出来事にもなってしまいました。先ほどの青木先生のお話しにもありましたように、私も毎日のように公園に来られる方々に、語りべと言うかストリーテーラーのようになって、当時のお話も交えまして説明しておりますが、今日も同じようにご紹介させて頂きたいと思います。
今日お話しする内容は次の通りです。まず、モエレ沼公園がどんな背景で作られているかということと、このモエレ沼公園の大きな特徴であります、イサム・ノグチさんが設計してくれたということを、お話しさせて頂きます。1988年の出来事ですけれども、そのときに私はモエレ沼公園の担当係長として交渉の窓口におりましたので、その辺のところを中心に話しなさいと言うことで、今日は呼ばれていると思いますので、そのときの様子を中心に、お話申し上げたいと思います。それとモエレ沼公園の設計の内容と施設の紹介させていただきまして、最後に公園の最近の状況と将来に向けて考えていることを、少しお話させていただければと思います。

まず初めに、モエレ沼公園は札幌市の公園計画の中で、どのように位置づけられているかお話しします。
札幌市の緑の長期計画で「環状グリーンベルト構想」があります。1982年の札幌市の緑の基本計画に基づいて打ち出されています。山側の山地の緑の保全と、平地側は、モエレ沼のようなごみの埋立地の跡地利用を中心に、平地部分を緑で包もうという内容で、現在も延々と事業を進めています。
その中の拠点公園のひとつにモエレ沼公園も位置付けられています。グリーンベルトは周囲が100kmに及びまして、公園の総面積は約16,400ヘクタールぐらいの構想です。その拠点公園として、すでに出来上がった大公園に前田森林公園や百合が原公園、平岡公園などがありまして、モエレ沼公園もそのひとつです。現在も手稲区の山口緑地では、ごみの埋め立て地を緑化する事業が続いております。厚別区にも山本ごみ処分場がありまして、ここも同様の事業を続けています。
それともう一つ、モエレ沼公園は東区の総合公園と位置づけられています。札幌市は10区に分かれていますが、各区それぞれに大公園を配置していこうという長期計画を持っております。現在はかなり公園の配置は進みましたが、東区は当時まったく大きな公園がない区でしたので、東区にも大きな公園を造ろうということで計画されました。
また、モエレ沼は今では自然そのままの沼に見えますが、ここでは国の治水事業が行われております。この周辺一体は低地帯で、昭和56年には通称「56水害」といわれる大被害を受けています。歴史的にもずっと水害に悩まされている地域です。その対策として公園事業と並行し、周辺地域一帯の伏古川総合治水事業を国が計画しまして、札幌市もそれに参加しています。遊水地として沼を大きく掘り込み、公園の中にも大雨の時には水が貯まるようになっています。最大で192万トンを貯水して、時間差で川の水位が下がったら順次、水を吐いていくというシステムになっています。すでに洪水防止の施設が完成しておりまして、この地域の洪水対策は非常に進みました。
さらに、清掃事業と公園事業の連携ということがあります。この公園の構想は、30数年前に始まりましたが、当時は札幌市も公園の少ない都市のひとつで、公園をどんどん造っていくことが大きな課題となり、いろいろ工夫して予算をひねり出さなければならない時期でした。モエレは内陸部でも100ヘクタールほどの土地がありましたので、何とかして用地買収費を生み出すことが必要でした。
当時、札幌市が指定政令都市になりまして、緑化推進部と清掃部、公害部という3部で環境局という組織ができました。役所の仕事の流れから行きますと、清掃のほうは厚生省、緑化は建設省、ということで、これまでは市の中でも余り交流のない状況でしたが、同じ局長の傘下となりました。それで清掃事業とタイアップして、緑化も進めようということが始まりました。ごみ処理場も都市にとってどうしても必要な施設ですが、長い間、ごみの埋め立てが続きますので、周辺地域にとっては迷惑施設でもあります。この地域でもゴミ処分場の受け入れには反対の動きもありましたが、跡地を公園にするということで、地元連合町内会等が話し合って、受け入れてくれたわけです。こうして、清掃事業の側面援助と公園事業としては用地費を清掃事業でまかなってもらうというメリットがありました。

この写真は当時、公園造成と一緒にごみ処理場が始まったところです。1979年から90年までごみの搬入が続き、不燃ごみが270万トン最終的に入りました。枠を作って下にシートを敷いて、そしてごみを入れて、その上に土をかけていくという作業です。平均して、7、8メートルの厚さで、この内陸部100ヘクタールにごみが入っております。
ご覧のとおり、沼もまだ細く埋まっていまして、後に開発局の手で水面を倍ぐらいに大きくして水を貯める、という治水事業をやっています。公園は1982年に公園の基盤造成を開始いたしまして、23年間かかりまして今年グランドオープンとなりました。その間に1998年には、公園ができたところから、さくらの森を中心に一般開放を始めまして、2002年にはグッドデザイン大賞もいただいています。
1988年にはイサム・ノグチさんが札幌市に来られまして、「モエレ沼公園をやってもいいよ」ということになりました。その時に先ほどの青木先生のお話にもありました、ビー・ユー・ジーという会社を創業して間もない、まだ30歳ぐらいの服部裕之さんという社長さんが札幌市へ仲介役になってイサム先生を紹介してくれた訳です。
当時、服部さんはテクノパークに社屋を建てていた時期で、設計をアーキテクトファイブという建築事務所に頼んでいましたが、そこはイサム先生をサポートしていた集団であったことがきっかけで始まりました。先生は残念ながら、その年の12月30日にニューヨークの病院で亡くなられましたが、それまで本当に精魂傾けてやって頂いて、模型と設計図面が残されたという状況になりました。
この年の11月17日に香川県牟礼のアトリエで先生84才の誕生会が開かれて、この時にみんなの前で、モエレと後で説明しますマントラの模型を前に「これで私がいなくなってもあなた方でできますよ」と冗談めかしていったこともありました。作者が亡くなった訳ですから、続行するということについて論議もあったのですが、イサム先生の継続への強い希望と関係者の協力が得られる見通しが付いたことから、当時板垣市長から「この件はあんたに任せるから」といわれていた、桂助役が継続していこうと決断しました。桂さんはご承知のように後に市長にもなられたました。
どういう体制で公園造成を続けていくかということで、アメリカのイサム・ノグチ財団の監修の下に、日本で設計をサポートしておりましたアーキテブファイブの川村さんを中心に細かい設計をやることと、札幌という気候風土を考えて、造園的な設計のサポートはキタバラアンドスケープの斉藤さんに頼むという体制で方針決済をとりました。斉藤さんには6月くらいからすでに手伝ってもらっていたのですが、10月にイサム先生が最後に札幌に来られたときに紹介しまして、先生は「植木のほうはあなたに頼むよ」といって気に入ってくれました。こういうわけで、この3者で引き継いで続けていこうという形になり、17年間そのまま続いてきたわけです。もちろん、和泉正敏さんを初めとするイサム先生とご縁の深い多くの方々の絶大な協力があって、なんとかここまできたということです。
そのときのイサム先生の様子を詳しくご紹介申し上げます。1988年の正月過ぎだったと思いますが、札幌にイサム・ノグチさんが来てなにかやってもいいと言う話で、札幌市では参加可能なプロジェクトを用意して先生をお迎えすることになりました。気に入ってくれるものが一つでもあればということで、3つ程候補を挙げました。一つは芸術の森でした。ここが桂市長は本命に考えていたようです。その隣に高等専門学校のキャンパスが計画中でしたので、キャンパス計画をやってもらおうということと、公園の設計ということにも意欲を持っておられるということも聞いておりまして、モエレ沼公園もまだ始まったばかりの段階だったのでここも加えておこうということで、3つの候補地の資料を送りました。モエレは付け足しのような感じでもありました。
私は当時、モエレの担当係長だったのですが、この他にも2つの大公園を抱えている状態で、他にも公園をいっぱい作っていた時代でした。大きな公園では造成費も多額になりますから、それぞれに特色があって存在感がある公園を造っていかなければいけないという気持ちを持っていました。そう考えるとモエレ沼公園の当初の計画は環境条件を生かし切っていないし、与えるインパクトも少ない、というふうに感じておりまして、是非、イサム先生がやってくれたらいいなあという気持ちがありました。

それで送る資料の中に、ちょっと魅力的な、遠くに札幌の山系が写り、札幌の市街地が間近に迫って公園の計画地は沼に取り囲まれているという航空写真を入れました。この写真とほぼ同じ方向から撮影したものでした。イサム先生は資料を見た段階で、すぐにモエレの航空写真が強く目に映ったように後で伺いました。とにかくモエレに早く行ってみたいと、来る前からそうおっしゃっていたということです。

これは1988年の10月28日に公園の視察にきたときの様子です。これが最後の視察になりましたけれども、こちらの右側の方が川村純一さんです。真ん中がイサム先生です。そしてこれが当時40歳の私です。まだ頭も真っ黒な元気いっぱいの頃でした。ちょうど公園の西側の橋の近くです。当時は半分くらいの区域が土がかかっていますが、もう半分はまだ、ごみがどんどん搬入されていました。
一番最初にモエレにご案内したのは、1988年の3月30日の午後でした。非常に天気のいい日で、まだ残雪もありましたが、先生はどんどん歩いていきました。我々も追いつくのに苦労するほどの速さであちこち一緒に見て歩きました。そこで言われたことに「せっかく広い大地と水辺があるけれどもこの計画では、ここの特徴が生かされていないね」と指摘されました。その場ではやるともやらないともいわれなかったのですが、見た目からもすごく気分が高揚しているのがわかりましたので、これはもしかしたらやってくれるかもしれないなと、期待していました。
2、3日たってすぐに、連絡があって「モエレはやってみたい」ということでしたが、市としては公園造成が少し始まっていて、地元との約束や公園の工事をしていく上での色々な条件がありましたので、それらをすべてお話した上で、お願いしようということになりました。その後のやりとりでは、先生は引き受けることに相当躊躇もありまして、はらはらしたことも再三あったのですが、話自体は急速に進んでいきました。そして、第一段階の模型が6月に出来た時に、市役所で記者発表をすることになりました。そのときには、まだ初期の段階のコルクで作った簡単な模型だったので、慣れていない人が見てもよくわからないような感じでもありました。 若い記者から、「先生の彫刻はどこに置くのですか?」と聞かれまして、即座に「これが全部彫刻よ」と言うふうにおっしゃっていたのを、とても印象深く覚えております。
ここからイサム先生の仕事は正式に始まりまして、その後、現地にも何回も足を運んで、私たちも東京へ行ったり高松にいったり、いろいろな指導を受けながら進めていきました。図面も何度も書き換えながら、模型もそれに従ってどんどん作り変えて、進めていきました。

 それと並行しまして、彫刻を作りたいという提案がありまして、ちょうど大通公園の改修計画が始まったところでしたので、そこに置いてもらおうかということで話が進みました。これは街の中心部で自分の作品に親しんでもらって、街から少し離れたモエレに来てもらいたいと言うことで、「札幌の子供達へのプレゼント」というふうに話していました。その時はどんなものになるかよく分からなかったのですが、ベネチアビエンナーレに出した白い大理石で作ったマントラの発展したものになったわけです。置く場所は最終的に道路上に置くということになりましたが、道路で区切られた公園をつないでもっと安全な良い空間にしようという、ご提案でした。 しかし、そのまま亡くなられて、道路を無くすということでいろいろと紆余曲折がありまして、イサム先生らしいエピソードなのですが、今日は時間の関係上詳しくお話できませんけれども、その後結果的に指定どおりの位置に置かれて、大通りの新しいシンボルという形になり親しまれている彫刻です。
石膏の模型が9月には、香川県牟礼に送られてきました。生前にアフリカ産の原石も用意され、先生も「これで良いよ」と確認しています。和泉さんが指示を受けて制作に入り、亡くなってからも続けて造ってくれました。模型は全部で13のピースに分かれていたと思いますけれども、一つ一つの形が非常にきれいなもので、とても複雑なつくりになっています。先生に「これどうやって作るんですか?」と訊いたら、ちょっと機嫌が悪かったらしくて、いつもは丁寧に教えてくれるのですが、「秘密です」というふうにしか言ってくれませんでした。これは、イタリアのピエトラサンタで安田侃さんなんかが手伝って作ったものだそうです。

 次に、公園の主な施設を説明させていただきます。モエレというのはアイヌ語で、「ゆっくり流れている川とか、ゆったり溜まっている水」という意味です。札幌から、北東に約8キロほど行ったところにあります。イサム先生がこられる前から、札幌は水辺の空間というのが非常に少ない都市ですので、沼周辺の空間を生かして公園造りをしたいと考えられていました。渡り鳥がきますので、自然観察のできるような場所を確保したいということ、地元に約束しておりました、スポーツ施設を作ること、そして冬のレクリエーションのために大きな山を造ること考えておりました。
イサム先生はこれらの条件を活かした上で公園計画を作り直してくれたわけです。先生の計画の特徴は、周辺の地域環境や景観との調和、ビスタラインや軸線を強調して、ダイなミックな地形造成をすることで、公園全体が彫刻という考え方で設計を進めてくださいました。先生の計画は、円だとか三角、四角という象徴的な形が多用されています。それと周辺の山々や平野そういう自然の地形とも強く関連性を持たせた造形をしていると思います。プレイマウンテンやモエレ山のうえに立つと強く感じると思いますが、全く人工的な空間なのに、自然を身近に感じるちょっと不思議な空間となっています。

これは公園の全景図です。右の区域に桜の森がありまして、これは当初から円山公園の桜も勢いが悪くなってきているので、何とか桜の名所にしたいということでした。これは板垣元市長の考えでもありまして、花見の名所を作ろうということで、だいだい3500本ほどの、エゾヤマザクラを植えています。15、6年も経ちましたので、花見も出来る林になっています。その中に7箇所、イサム・ノグチがすべてデザインした遊具をおいた広場があります。

これは「桜の森」です。この中に7箇所の遊び場が点在しています。この広場が遊び場のスタートになります。こちら側で遊んだ子供が飽きてきたら、次の広場が見え、また次にいくとその先も見えるという具合に、次々と子供の自由な遊び心を引き出すように考えて配置しています。
「桜の森」の中の遊び場の一つです。全てイサムデザインの遊具です。亡くなられてからニューヨークの財団から、それぞれの広場の模型が送られてきました。一つ一つは非常に派手な色使いをしていますが、全体に見るとうまく調和し配置されています。こういう大胆な中にも、よく考えられた繊細な色使いはなかなかできないなあと本当に感心しました。それぞれが彫刻と呼んでも全くおかしくない、とてもよくデザインされたものです。ジャングルジムもあります。是非皆さんにも見て頂きたいですが、こんなに美しいジャングルジムは世界中にここ一つだけですね。非常にきれいな形で作られています。

これは「モエレビーチ」と呼ばれていますが、先生は「サッポロビーチだね」と上機嫌で言っていたのを思い出します。11月17日の誕生日の前日に打ち合わせをしたときに、ひょうたん型にハサミで紙を切り抜いて「この形でいいね」と模型にぺたっと貼り付けて「これで札幌ビーチが出来たね」とおっしゃっていたものがこういうふうに出来ました。札幌は海が遠いものですから、身近に水遊びできる所を造りたいということで、作っています。これは元の計画にはなかった施設で、イサム先生は海がとても好きだったことから考えたものかもしれません。夏になりますと子供たちで大賑わいになります。ここは珊瑚で舗装されています。パラオ諸島の港から出る珊瑚のくずですが、海流で港が埋まってしまうので、それを利用しています。この舗装は美しい海辺のようで、水の濾過にも役立っています。

 これは、「プレイマウンテン」でおよそ30メートルの高さがあります。こちら側にずっと石を並べておりまして、この側面から見ると三角形のピラミッド型に見える山です。反対側の緩いスロープは知らず知らずに誘われるように登っていきます。人間の心理や自然な行動をよく考えて、うまく作ってあるといつも感心します。1933年に初めて地球を彫刻するということを発想したと自伝に書いていますが、この構想はニューヨーク市に何度も何度もこういうものを造りたいと提案しましたが、実現しなくて、しかたなくブロンズの模型で残しておりました。これは、後の時代にアースワークと呼ばれる芸術の一分野にもなりましたが、1933年に既に発表しておりまして、そういった意味でも時代に先駆けた特別な人だったと思います。

これは、「テトラマンド」というこの公園唯一の彫刻的なモニュメントです。実物は非常に大きなもので高さは13メートルあります。先生は小さな模型で作ったのですが、6月あたりだったと思いますが、模型を修正していた時に、何か気に入らなかったらしくて、急に「止めよう」とはずされたことがありました。でも私としては、これ一つしか彫刻的なものがないので、「先生それはだめです」ということで無理やり模型にくっつけて、「この方がいいでしょう」と言ったら先生も考え直してくれて「そのほうがいいかな」と残してくれています。いま出来上がったのを見ると、特に写真の被写体として良いらしくて、カメラマンはよく撮っています。あのとき無理やりにでもつけておいてよかったなといつも思っています。

これは「アクアプラザ」という名前になっています。元の計画ではこのあたりに自然の水の流れを描いていたのですが、3月に初めて視察に来た時、イサム先生にこれをさして「これなんですか?」と訊かれました。「水の流れで、自然のような小川を作ります」と説明しましたら、「こういう大きな自然の中で、自然と競争しても負けますよ」と言っていました。先生は自分流に抽象的な水の流れが作られました。これはロサンゼルスの近くにコスタメッサという町がありまして、そこにカリフォルニアシナリオというアメリカの開拓の歴史を抽象化したノグチの造形作品がありまして、それとよく似ているものです。

これは「ガラスのピラミッド」です。これは、悪天の時とか冬の寒さから避難して温まってもらうのが、一番の目的で建てられています。ガラスのピラミッドという名前になっていますが、1988年にルーブルの中庭に、建築家のI・M・ペイがガラスのピラミッドを作っています。ペイと親しい関係にありましたイサム先生はすぐに見に行きまして、「非常にきれいなものだ」と感心して帰ってきました。モエレには「自分なりのガラスのピラミッドを造るよ」、と言ってましたので、それでガラスのピラミッドと呼んでいます。ルーブルのような完全なピラミッド型ではありませんが、開放的な明るい空間になっています。この中にはレストランもありますし、イサム・ノグチギャラリーといって映像で先生の芸術活動を知ることができる施設も作っております。

これは「モエレ山」ということで、当初もうちょっと違った形だったのですが、このような円錐形の古墳のような形を作ってくれました。62mで公園の地盤からは52mあります。2mくらいはだんだん沈んでいくという計算で、大体50mになる予定です。冬季間の利用や展望の施設でもありますが、この地域一帯のランドマークになっています。

これが最後に完成いたしました、「海の噴水」です。中心部のカラマツの森の中に作られていまして、直径48mで、25mの高さまで水が吹き上ります。マイアミのベイフロントパークに原型の噴水があります。水の動きは一つのストーリーになっておりますが、イサム先生は「大きな波が渦巻くような噴水を造るんだ」と言っていました。どんな噴水になるんだろうと、思っていましたが、今までの噴水の概念を打ち破る豪快な噴水が出来上がりました。イサム先生は各地に噴水を造っていまして、1970年の大坂万博の時にも面白い噴水をいくつも作っています。その時、先生を支えて設計してくれた方が中心になってこれを実現しています。
今年はグランドオープンということで入場者は、9月末で58万人になっていまして、すでに昨年の42万人を上回りました。最近は道外のお客さんや外国のお客さんが目立つようになってきております。先生は生前に「世界中からお客さんがきますよ」と言っていまして、なかなかの自信だなあと思っていたのですが、それが現実のものになりました。お客様は世界各地から来られますが、皆さん一様に「気持ちがいいね」というような感想をもらします。どの国の方の印象もほとんど同じです。
イサム先生は「生活において役に立つ作品」ということを常に言っておられまして、とにかく人に触れたり、触ってもらいたい、それで直接身体で感じてもらいたいと、常々言っていた方です。自分の作品が美術館の手の届かないところに飾られたり、コレクターや美術商の投機の対象にされるとういうことを非常に嫌っていましたので、公共的な広場や公園という誰にでも平等に楽しんでいただけるものを、最も取り組みたかったのだと思います。そのような先生の希望が集大成という形でモエレ沼公園に実現したということが言えると思います。
イサム先生は日米混血で子供時代は大変苦労して13歳まで日本で育っています。その後、アメリカで彫刻家になりましたが、当時は非常に差別が強くて、アメリカでは日本人、日本ではアメリカ人だといわれ、戦争もはさんで非常にご苦労されています。そういう宿命的とも言える厳しい経験に耐えてきた方だからこそだったと思いますが、平和ということを常に求めて、いつも世界の紛争などが起こるたびに自分のことのように心を痛め、悩んでいたと聞いています。
そういう方でしたので、この公園で誰もが自由に国境も宗教も政治も越えて、みんな気持ちよく楽しくすごしてもらう、ということを目指していたと思います。それがいま実現できましたので、喜んでくれていると思います。細部にわたっては、先生が元気でおられたら違ったものになったかもしれませんが、全体としてはよくやったねといってくれるのではないかと思っています。

 モエレ沼公園は看板も少ないですし、自動販売機も最小限しか置いていません。ゴミ箱も原則としておかないようにしています。看板は時と共にだんだん増えがちです。自動販売機は風景として良くないですしゴミの発生源でもあります。持って帰ってもらい、郊外にハイキングに行く時のように、飲み物や食べ物も出来るだけ自分たちで用意してきてもらいたい、そんな公園を目指しています。
そしてここではできる限り自由な空間であるように、他の利用者のことも考えて楽しく遊んでもらいたいと思っています。管理する人間はできるだけ目立たない形でいたいわけ、問題がなければ、わざわざ管理の側で注意することもありません。ゴミを捨てる人がいなければ、公園にゴミが散乱することはありませんし、税金を掛けて拾う必要もありません。
いまモエレ沼公園では様々なイベントが行われるようになってきました。ツールド北海道の自転車競技が行われたり、ギターのコンサートや、昨日も公共建築の子供向けイベントが開かれています。こんな状況は大変嬉しいことと思っています。先生が亡くなられたあと17年間も続けてこられたのは、市民が支持し支援してくれたことで初めてできたことと思います。そんな強力なサポートの例として、公園のあり方に関わっていこうということで、市民が「モエレファンクラブ」という組織を作ってくれています。今後、さらに自分達の公園として積極的に応援する人が増えていってもらいたいと思っています。
最後になりますが、「心の豊かな」ということを題名に上げさせて頂きました。これは1992年に、大通りのブラックスライドマントラの除幕式に、イサム先生の親友で、もとの香川県知事の金子正則さんが駆けつけてくれまして、そのときのパーティで講演してくれました。その時にこんなことを金子さんはおっしゃいました。「芸術も政治もその求めるものはみんな同じだ。皆、人の心を感動させ豊かにするためにささげられるものだ」と、「人の心を豊かにする為に芸術というものは有る。」と熱弁してくれました。これはイサム・ノグチと長くいつも話してきたことを代わりに伝えてくれたと、みんな感動しました。それで今日のような機会があればよくお話ししています。
本日はこれで終わらせて頂きます。有難うございました。

司会 有難うございました。あらためてモエレ沼のこの17年間、長ければ23年間ほどの経緯をお話いただいて、私達がこの公園をこの先どういうふうに大事に、単に守るだけではなく有効に利用しながら未来へとつなげて行かなければならないのか、そしてどんなに心を豊かにしていかなければならないのかということをあらためて感じました。時間も押していますが、この際山本さんに是非お聞きになりたいことがあればどうぞご遠慮なくお手をお挙げください。よろしいでしょうか?
聞くところによると残念ながら噴水は今年は今月いっぱいでもう終わりで、冬季の準備だそうですが、冬は冬でスキー等で遊べますので、是非一年通して楽しみたいと思います。では山本さん有難うございました。
ではあらためて、今日のお二人に、青木先生と山本さんに感謝申し上げたいと思います。有難うございました。