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活動報告

環境芸術学会第6回大会 シンポジュウム報告
シンポジウム『環境・自 然/メディア・芸術』
10月23日(日) 13:00〜14:30スピカ・アリーナ
<パネラー>
佐藤 友哉(北海道立近代美術館副館長)
橋本 周司(早稲田大学ヒューマノイド研究所長)
松原 仁(公立はこだて未来大学情報アーキテクチャ学科教授)
< コーディネータ>
柳 英克(公立はこだて未来大学教授/大会実行副委員長)

 柳 有難うございました。病床からのメッセージでしたが、非常に元気なお姿を拝見できて嬉しく思いました。そして、来年の2月に鎌倉県立近代美術館で展覧会を開催されるということですが、そのような芸術活動が人を元気にさせるのだなということを改めて思いました。
山口先生は、「衣食住は、人と環境とのインターフェイスだ」ということを仰っていましたが、そのお言葉に、私自身非常に共感しています。「人と環境とのインターフェイス」については、次のシンポジウムのテーマにも関連いたしますので、またそこでお話をさせていただければと思います。 

 では、ここで改めて自己紹介をさせていただきます。今大会のシンポジウムで、コーディネーターをさせていただきます「公立はこだて未来大学」の柳と申します。よろしくお願いします。
ではパネラーの先生方のご紹介をさせていただきます。北海道立近代美術館から、佐藤友哉副館長におこしいただきました。佐藤先生は、現代美術、北海道の美術、美術館学をご専門に研究活動をされています。
そして、早稲田大学ヒューマノイド研究所所長の橋本周司先生におこしいただきました。橋本先生は、人間共存ロボット、メタアルゴリズム、感情情報処理、ヒューマンインターフェイスを研究されています。 
公立はこだて未来大学、松原仁教授におこしいただきました。松原先生は、人工知能、ゲーム情報学、エンターテイメントコンピューティング、観光情報学を研究されています。
今大会シンポジウムのメインテーマは「環境・自然/メディア・芸術」です。これは大変広い意味を含んでおり、非常に考えさせられたのですが、人と環境という視点からテーマを捉えてみると、「自然環境」、それと「人の営み」、また「人の営みから形成された環境」といった構造が見えてきました。
この中から「人の営み」に関連して、オーストラリアのアーティスト「ステラーク」をご紹介させていただきます。

 ステラークは、情報環境としてのインターネットと自分の身体を接続するパフォーマンスを行っています。身体にはもう一つ「第3の腕」としてロボットの腕が付いているのですが、その動作は自分の意思ではなく情報環境(インターネット)からの信号によって制御しています。ここで、ステラークの身体は「人と環境のインターフェイス」という機能的役割を果たしています。その結果、自らの意志だけでは制御しきれなくなってしまった身体性には、近代文明に制御されることの「不自由さ」といったメッセージが込められているのではないかと私は考えています。
「人の営み」に関連して、もう一つ例をあげさせていただきます。

(音楽)
このロボットは、環境情報をもとに自らの動きの制御とサウンドの生成、またロボットの視線から捕らえた映像をコンピュータ経由でフィルタリングを行ってモニターしています。またロボットのボディそのものがサウンドを生成するメディア(楽器)として機能しています。
ステラークの活動とこのロボットの共通点は、自らが一つのメディアとして機能し、環境情報から新たなメッセージを伝えているということです。そこには「人の営み」として芸術と科学の横断的な活動の成果があると思います。
パネリストの先生方には芸術と科学の領域からおこしいただいています。それぞれの視点から「環境・自然/メディア・芸術」についてお話しをお伺いするということで、テーマに関連した二つの活動について紹介させていただきました。
ここで、今回のテーマに関連して、環境ロボットとステラークの活動にどのような共通点があるかということで、キーワードを考えてみました。

まずミュージアム。
どちらの活動もミュージアムで行われています。
そして環境を対象に情報表現を行っています。
そこでは芸術の活動として行われています。
また、それぞれの身体がメディアとして機能しています。
ロボティクスがメディアテクノロジーに応用されています。
最後に、人が時間を共有しメッセージを体験するという場があります。 
これらの共通項が我々を何に導くのかということがキーになるのではないかと思うのですが、その点について考えてみたいと思います。
山口先生の「衣・食・住は人と環境のインターフェイス」というお言葉がありましたが、芸術や科学も、人を「あること」に導く「人と環境のインタフェース」と捉えることが出来るのではないかと思います。
今回のシンポジウムでは科学や芸術が、我々人をどのような「こと」に導く「インタフェース」として役割を果たしてきたのか。過去にはどのような「こと」に導く役割があって、現在あるいは未来にはどのような「こと」に導く役割を果たすのかといった側面からシンポジウムのテーマについてお話しさせていただきたいと思います。
それでは最初に佐藤先生から芸術の領域のお話をしていただきたいのですが、芸術が我々をどのような「こと」に導いてきたかというところに着目したいと思います。では、佐藤先生、よろしくお願いいたします。

佐藤 今、テーマを与えられましたがそれに答える自信がまったくなくて、困ったなと思っています。先程山口先生が「鎌倉で展覧会がある」というお話をされていましたが、先日、東京、横浜への出張時に元鎌倉近代美術館の館長で、現在は世田谷美術館の館長をされている酒井忠康さんにお会いする機会があって「そういえば山口先生の展覧会がありますよね」というお話をしました。その時に「環境芸術という言葉は山口先生が作られたのではないですか」とお聞きしたら「はて?」と言うのですね。つまり環境芸術という言葉は酒井さんの頭にないのですよ。
その後、横浜トリエンナーレで色々な作品を見てまいりました。各国から多くの作家が参加して、様々な表現をしていましたが、例えば今人気作家の奈良美智さんは、いくつもの部屋の中にドローイングや、毒があって可愛らしいような女の子を描いた絵画を展示していて、その部屋の階段を上っていくと海が見えたり・・、つまり完全な環境を作っていて、作品が環境そのもののような感じがしました。
横浜トリエンナーレにはディレクターに川俣正氏、キュレーターに天野太郎氏と芹沢タカシ氏、ヤマノシンゴ氏がいますが、その時、川俣氏と天野氏にお会いすることが出来ました。お二人に「環境芸術って何?」と聞いてみましたが、「はて?」と考えてしまって、まだ焦点が定まっていないように思いました。つまり、今、現代芸術、あるいは現代美術において「環境」を含む意味が無いということではなくて、すでに芸術自体が完全に環境化しているのではないか、というように考えました。
山口勝弘先生に関連してお話しますが、1966年の11月頃に「エンバイアラメントの会」というのができています。銀座の松屋だったと思いますが、そこで展覧会が開催され、それに合わせて確か草月会館だったと思いますが、靉嘔(あいおう)とか山口先生それから秋山邦春氏といった方々のパフォーマンスが行われたりしました。この時の、松屋の展覧会では、いわゆる「光や音」というものが作品に多く使われていて、こういう表現が日本で起こってきたんだということを感じました。今回、私が「環境芸術」という言葉を聞いた時に、そういう60年代半ばのことを一気に思い出して「ああ懐かしいな」と思いました。そして現在「環境芸術」という言葉が使われていることについて、僕は正直あまり分かりませんでした。そこで、色々な方にお聞きしてみたのですが、先程お話したような状況でした。
それはそれとして、ここで指摘しておきたいのは、つまり、この「環境芸術」という言葉自体がそのあたりから盛んに使われて来たということと、表現に於ける「テクノロジーの役割」が重要になって来たということなんです。
例えば、アラン・カプローは1950年代の末から60年代初めにかけて「ハプニング」という表現運動を行いましたが、このカプローが「エンバイアラメントアート」ということをどうも言っていたようです。その表現手段には、もちろん行為ということもありましたし、テクノロジーを多用に使っていくということもありました。そこから発生して、例えば、ローシェンバーグという作家が「EAT」という科学と芸術の統合イベントをアメリカで繰り広げたということもありました。ですから、このような流れについては押さえておかなくてはならないだろうと思います。
さらに歴史を溯っていきますと、例えば「未来派」やロシアの「構成主義」、それからオランダで起こった「デ・ステイル」という運動がありましたが、これらの運動は「モダニズム」がもたらされた根源であるということ以前に、むしろユートピアを作るための一つの芸術運動だったと考えていいわけです。
例えば、タトリンとかアルトチェンクとかジースキーという作家たちは、いわゆる新しい社会主義の国を作るために、本当に労働者が橋を作るように、実際の空間の中に実材を使って物を構築していくということがテーマだったわけです。ですからここにも「テクノロジーへの依存」というのははっきり出ています。
それから、モンドリアンがドースブルフらと結成した「デ・ステイル」は新造形主義の実践を目指しました。これもやはり建築や空間を含めてデザインし、国を造っていくという一つの運動であるということが言えます。このように、広く20世紀の美術を見渡していくと、非常におおざっぱな言い方ですが、すべからく環境芸術と言えるのではないかと思います。
一方、1970年代のアメリカでは、自然環境の中に直接働きかける「アースワーク」あるいは「ランドアート」と言われる作品が生まれてきました。その頃は、レイチェル・カーソンが1962年に書いた「沈黙の春」で環境問題に対して警鐘を鳴らし、人々の間で環境に対する関心が高まってきたという時期でもあったわけです。そういうことに呼応して、いわゆる「テクノロジーへの依存」は後退して、環境に直接働きかけるような自然系の表現というものが生まれてきたのです。
日本の場合でいうと、1960年代から70年代の始め頃に李禹煥(リ・ウハン)らを中心に「物の出会いを大事にする表現」ということから「モノ派」というのが生まれてきました。
こうした流れの中で、「自然」というものの捉え方が大き
く変化し、同時にいわゆる「彫刻」といった考え方ではなく、「インスタレーション」のような考え方がでてくるということです。そして、「環境芸術」なるものが存在していたとして、その有り様は時代背景とともに変化をしていったのではないかという気がします。
現在は、環境問題と同時に都市論の問題として「環境がどうあるべきか」ということに作家達のアプローチが試みられています。一方で「モダニズム」の崩壊というのでしょうか、簡単に言いますと、表現に於いては何でも有り得るということが起こってきています。メディアとかパフォーマンスなども含めた表現の多様化によって、芸術の環境化という状況が生まれてきているのだと思います。
私はローテクな人間ですので、今日は何も映像を用意していませんが、幸い後ろには伊藤先生や國松先生の作品がありますので、その中からイメージしながら聞いていただければと思います。

 さて「環境芸術」といった場合に2・3のポイントがあげられると思います。一つは、芸術の表現としての非物質化です。それともう一つは、統合化。あるいは様々なジャンルが統合・結合しいているということです。この二つが、気になるポイントではないかと思います。結局はそれらによって関係の芸術というものがクローズアップされてくるのではないかと思います。広く言えば「環境芸術」という言葉があったとすれば、それは「関係の芸術」であろうと思うわけです。今日、コーディネーターからお話があった「インターフェイスとしての芸術」というものは「関係としての芸術」というものが「非物質化と統合化」によって成り立ってきているのだろうと思います。その中に、当然テクノロジーの問題も含みながら新たな環境を作っていくということになるのではないかと思います。
この後どの様なことをテーマとして考えなくてはならないかというと、山口先生が地球を見せてくれましたたように、我々人類は、地球という一つの限定された環境の中で生きざるを得ないわけです。そういう中で、共生するという事、一緒に生きるという事が問題化され意識化されなくてはいけないことだろうと思います。共生というのは、様々な人種、宗教、それから考え方、あるいは自然と物質、自然とテクノロジーという言い方でも良いかもしれないですが、様々で異質なものがどの様に共生していくのか、どの様にインターフェイスを持つのかということだと思います。その「共生の為の装置」、これが「環境芸術」が今後目指すべきことなのではないかと思います。そこで、テクノロジーがどこまで役割を果たせるかということです。今日は、ロボティクスの専門家の方がいらっしゃいますので、前座のようなお話をさせて頂きましたが、私はこの様に考えているところです。

柳 どうも有り難うございました。人と環境のインターフェイスということで、芸術家の役割として「共生化」というキーワードが出ました。人の身体には自然な部分と人工的な部分があって、まだまだ進化途上にあると思います。そういったところで、人はいつも自然と人工の狭間でバランスを取らなくては生きていけないなと私自身も感じています。
ここで、山口先生の「衣食住は人と環境のインターフェイス」というお言葉から、その「衣食住」は人を何に導くか。例えば、着るもの、住むところ、食べるものというのは、やはり「生きる」ということに導いているのだと思います。これは人にとって非常に基本的な活動だと思うのですが、そこで我々近代の「人」は、更に「豊かに生きる」ことを目指しているのだと思います。その豊かさを実現する手段として、科学や芸術、あるいは工業技術のような「人の営み」があるのだと思います。
ここで、橋本先生に科学の領域での導きみたいなことに着目してお話を伺いたいと思います。

橋本 橋本です。今日は門外漢としてお話をさせていただきます。我々はこれまでロボットやメカトロニクスを使った音楽システムを作って来たのですが、それがどのような立場で作ってきたのかということから、お話させて頂きたいと思います。
まずコンピュータの歴史は、早く計算したいということが皆の夢だった訳ですが、そろばんや計算尺というまさに手動式のものから、人力式のまさに歯車を回すタイプのものがあって、約60年前に初めて電子式の計算機ができました。実はそれ以来、計算機の形式というのはほとんど進歩していないと言って良いと思います。基本的には、この時にほとんどのものができ上がっています。後はテクノロジーの進化で、高速になり小さくなるということで、今では会社に1台欲しかったものが一人に1台、1部屋に1台欲しいというインテリアに近い形でコンピュータが使えるようになってきました。
この60年の間でだいたいの進歩の速さは、1.5年で2倍の性能向上です。この様な性能向上をしますと、最初の頃は、現在100円ショップに売っている電卓より性能の悪いものが、このアリーナいっぱいの装置だったのです。そうなりますと、情報処理というものが、相当進歩してきているのだということで、私なりに3つの段階を考えてみました。
一つは、物理的レベルで信号を処理する、波形を処理するという時代が最初にありました。これはまさに物理法則に支配されて、その中で何かやっていこうという立場です。それに対して、論理レベルの処理ということで、物理的に不可能なことも計算機の中ならできるという時代がやって来ます。つまり、数学をベースにして論理無矛盾であれば良いという世界になってきました。最近は、特に日本が中心といって良いと思うのですが、計算機の能力が非常に早く進化しましたので感性レベルの処理を計算機ができるのではないかと目指している訳です。そういう意味で、コミュニケーションに関しましても、物理的なコミュニケーションから知的なコミュニケーション、更に感性的なコミュニケーションという様に進化しつつあって、ユーザーやアプリケーションそのものが拡大して来ています。
このようなハードウェア、ソフトウェアの進化に対応して、これまで、機械の命令として例えば「進め、止まれ」と言っていたものが、もう少し数量的に「90度回転しろ」とか、「1 メートル進め」と言えるようになってきました。それが最近の研究室レベルでは、「少し前へ進め」の「少し」が、マインドウェアといって感性的な情報処理装置として計算機にも翻訳できるようになってきました。さらに先走って言いますと、「きれいに塗れ」とか「優しく掴め」ということを計算機が理解してくれても良いのではないか、それだけの能力をすでに持ち始めているのではないかと思っています。ただ、その方法がまだ解っていないので、それが我々の研究対象となっています。
これは初期の頃の一つのインターフェイスの例です。

(ビデオ)
計算機がカメラを通して指揮棒の動きを見、そのテンポにしたがって音楽を生成しています。左手のデータグローブで細かいクレシェンド、デクレシェンドのニュアンスを受け取るということで、従来のキーボードやマウスに比べると扱いやすくできています。これは音楽専用ですけれども、そういう新しいインターフェイスとして他の用途にも使えるのではないかという訳です。この指揮棒を振るというのはもともと人間のための動作なので、コンピュータのオーケストラと人間のピアニストが人間の指揮者の下で協奏するということも可能になってきています。単にテンポだけではなくて、ある程度のニュアンスも伝えられるようなインターフェイスができるようになってきました。
この楽器の部分はミディ楽器ですけれども、人間の音声も同じように指揮することが出来るだけの、音響情報処理がリアルタイムでできるようになってきたという訳です。

(ビデオ)
これは速く振ると苦しそうな顔をするというCG画像のおまけが付けられています。猫でも歌うということになります。更に全く同じ画像処理で、指揮棒の代わりにシルクハットの動きを天井から撮ると、ダンスのフロアーパターンが解析できて、それに合わせた音楽を出すということも可能になります。
こういうシステムは、比較的大掛かりだったのですが、最近はだんだんと簡単になってきて、これは加速度センサーだけを使って同じことができます。また、音楽家にとっては従来の音楽を制御したいのではなくて「自分の音を出したい」ということがあって、動作波形をそのまま音にするということをやると、音楽らしい音ではないのですが、この方が喜ばれる場合があります。
更に、技術的な試みとしては、音程や母音の認識を、実時間で行います。

(ビデオ)
実はこれは全く売れないシステムで、カラオケを歌う人は自分のテンポで伴奏してくれなくても良いのです。自分の好きな歌手と同じテンポで歌いたいと思う人が多くて、このシステムは商売としては上手くいかないということです。
ただ見て頂きたいのは、これは約10年前のシステムですが、実際の歌う速さで音程を認識できて、母音だけですが歌詞も認識できる、そして歌の調と速さを認識しながら次の拍点を予測して伴奏をつけるわけです。このためにコンピュータが二台とちょっとしたハードウェアが必要になってくるわけですが、それがわずか3・4年後には、マッキントッシュ一台で全てができるようになったのです。これがコンピュータテクノロジーの発達の速さと言って良いかと思います。

(ビデオ)
この様なデモは芸術的ではないのですが、この歌の速さが3年間のうちに進歩するということが実際に起きているということです。こういうことを背景にして、新しい楽器のようなものを作って、音環境と人間の環境を変えてみたいということです。楽器というのはもともと人間の動作を音に変換する装置で、従来の楽器はそれが物理的構造で変換関係が決まっていますが、それをプログラムで自由に変換できると、かなり楽器としての自由度が増します。

(ビデオ)
これはジェスチャーを認識して、音程をハミングで出しています。ですからハミングで音さえ出せれば、任意の楽器が弾けるということになります。コーラスまで一人でできるということになリます。あるいは、楽譜情報をあらかじめ入力しておきますと、楽器編成をジェスチャーでリアルタイムに切り替えていくことができます。スイッチでやっても同じ事ができますが、この方が直感的で解り易いだろうという訳です。ただこれも、森本さんという作曲家はそのような使い方はしなくて、一種のスイッチとしてジェスチャーを使うということでした。

(ビデオ)
これは作曲家の菅野先生に、ねじれたような音を出せないかという事を言われて、「じゃあねじる装置を作ろう」ということで始めたことです。更にこれは物を作って音にするということをやったのですが、そうではなくて環境そのものを音楽的にしようということで、人間のダンスによる動作から自動作曲システムを駆動する。そして、その音を聴いてまたダンスが変わってくるという環境も作れるのではないかと思います。
どのような音にするかを作曲家が定義できると、このような一種の環境生成が電子的装置を使ってできるようになります。これは最初に見ていただいた、ミュージアムに置いてあるロボットですけれども、音楽家が一緒に仕事をするのであれば、計算機インターフェイスではなくて、MIDIという楽器用のインターフェイスを使ったロボットの方が使い易いということで、MIDIコントロールのロボットも作って見ました。
こういうことは、今のテクノロジーでは比較的簡単にできます。ただ、我々が苦労して面白いと思うことと、パフォーマーが面白いと思うことが、全く違うことがあったりして、苦労の割に感謝されなかったり、苦労しないのに感謝されたりということがあります。

(ビデオ)
これはまったく裸のロボットですが、目が付いていてダンサーと共演するシーンを作っていこうと思いました。このロボットも自立していますので、上に乗っているコンピュータだけで全てがコントロールされているのです。
一方ロボットの進化ですが、最初に物理的なオートメーションの時代があって、その次に産業ロボットといわれているものが登場しました。現在の工場にも多くありますが、それから「人間共存ロボット」あるいは「人と共生するロボット」を作ろうというのが最近のブームになっています。そういう意味で、先程の物理、知識の点から言いますと、感性までを含んだロボット作りが行われています。我々の大学では、最初から人間型に拘って始めたプロジェクトがあります。約30年前に始められた加藤一郎先生の頃のロボットを見ますと、まさに制御の問題を一生懸命やって来たということが言えます。
その後に作ったこのロボットは筑波の科学万博で楽譜を認識してキーボードを演奏しました。声を聞くとまさにAI 時代のロボットです。これは、知識情報処理を使い、楽譜に関する情報も使って認識をしようというものです。このロボットは純粋に楽譜どおりにしか弾きませんから、あまり芸術的な音楽とはいえない。これは筑波の科学万博の開会式でNHK交響楽団がロボットに合わせて演奏している状況です。まさにここまでが、論理的情報処理の限界だろうと思います。
それが、現在のプロジェクトで開発しているロボットは、余計な機能が非常に多く付いています。例えば「瞬き」などは機械にとって必要ないものですし、「逃げる」とか「関節が柔らかい」とか、本来ですと意味がないのですが、このようなことが現在開発されているロボットの中心課題になっています。そういう意味で感性的な問題が、ロボティクスにも入ってきていると言って良いかと思います。

(ビデオ)
この二足歩行ロボットもホンダさんが作ったのと同じ頃のもので、お互いに見せ合ったりしていました。これは動的なコントロールをしていて、上半身を振ってかなり人間に近い歩き方をしますので、応用としてダンスをさせようということになります。

(ビデオ)
このように、従来のロボットとは明らかに応用する範囲が変わってきています。つまり第三次産業用のロボットだといって良いかと思います。その中で、人間との親和性をどのように上手く取れるのかという事が、これからの中心課題になっています。我々の仲間で、二足歩行ロボットの開発を行っている高木先生のところでは、ロボットがただ歩くのは当たり前だということで、少し浮かれ歩きをさせようとか、歩く中に様々な感情をコードしようということで研究を行っています。
こういうロボットならば専用のディスプレイ装置がなくても電池の無くなってきた様子が分かるのではないかというのです。ロボットが視覚と聴覚と触覚あるいは力覚も持つということで、どこでも押すだけで自由にコントロールできるロボットが実現できるようになってきました。このようなマルチモダリティというのは、現代のロボットには非常に重要なのです。
実在のロボットの一つの目標として私どもが考えているのは、生産機械を超えた機械を作りたいということです。第二次産業だけでなく、第三次産業でも役に立つという機械の開発が目標なのです。
もう一つはシミュレーターを超えるということです。バーチャルヒューマンとか、人間のシミュレーションが計算機のなかで正確に出来るようになってきましたが、もっと実態を持ったシミュレーターとしてロボットを使うということが目標になっています。
もう一つは、グラフィカルユーザーインタフェイスと呼ばれている今の情報端末に替わるものとしてロボットが使えないかということです。最近では色々なところで、商品に近いものが出てきています。
さらにマルチメディアと呼ばれているオーディオビジュアルメディアを超えた新しいメディアとしてロボットを使えないかということです。私は何年も前から、プレイステーション4は身体を持つに違いないと言っているのですが、なかなかそこまで行かないのです。いずれディスプレイ装置に替わってロボットが接続されるだろうと私は思っています。
今ご紹介したのは、ほとんどが自立するロボットです。盲導犬やペットなどへの応用分野があります。それともう一つ非常に発達しているのが、操縦方のロボットです。パワーアシストとか極限作業とか手術支援というようなものがあります。
さらに注目すべきロボティクスの応用分野としては、環境をロボット化するということがあります。つまり実態としては見えないけれども、我々がロボットの体内にいるという雰囲気で、例えばこの建物自身も天井が開いたり閉じたりします。一種のロボットみたいなものです。こういう中で快適に生活していくという意味の「環境ロボット」というのは、例えばスマートハウスとか、ADS、エンタテイメントという中で知らず知らずのうちに我々は使い始めています。自動ドアとか回転ドアといったものはこの走りだといって良いと思います。
最後にご紹介したいのは早稲田大学が岐阜県で行っている「WABOT HAUSEプロジェクト」なんですが、まさに環境も含めたロボティクスのあり方に関する研究です。建築家も建物を建てるところからプロジェクトに参加していて、第一期5年目の1年前になってやっと建物が完成しました。そこでは「人間のための建物」・「人間とロボットのための建物」・「ロボットだけのための建物」という3つの種類の建物があって、その中で研究を展開しようというものです。
さらに、ロボティクスとも音楽とも違うのですが、四次元を見るような環境も最近は比較的簡単な計算機でできるようになってきました。四次元というのは、要するに三次元立体を二つ並べて、論理的には各頂点同士を結ぶとできるのです。それを三次元に投影したものを三次元空間で見るという少し複雑なことをやっています。例えば、我々が三次元のものを二次元の紙に書いて感じることができるように、四次元のものを三次元に替えて、感じられないかということです。プロジェクションとしては三次元ですがデータは四次元のものです。四次元の立方体というのは三次元に投影するとこのように見えるのですが、立方体に限らずどのような形でも扱うことができます。
もともとの動機としては、四次元の迷路を作ってみたいというのがありました。教育的には、複素関数といって四次元でなければ書けない関数をグラフ化すると、特異点といった特別な点が見えるのではないかないかと考えました。表示の仕方は何種類かあるのですが、これは三次元の時間で動いているロボットを時間軸から少しずれた軸から見るとどのように見えるかということをビジュアル化したものです。ただ見るだけではなくて好きな位置から見えるように、三次元空間を四次元空間のある球の表面上にマッピングして、動き回ることによって視点を変えられるというような仕組みを作りました。これは一種のインターフェイスなのですが、それで四次元空間の中を動き回るという感覚を何度も経験すると、四次元が理解できるようになるのではないかということです。先ほど見えた黒い丸は複素関数の特異点ですが、そういうことが解るようにならないかということも検討しています。
(ビデオ)
これは、今のブロードバンドとまったく逆で1ビットだけで通信する装置です。ボタンを押したら順番に色が変り、繋がっている相手も同じ色になるだけというものですが、それをあちこちに設置して繋がった気持ちになれれば良いという通信の提案です。当時は助手で今は筑波大学に行きました鈴木さんが、プロモーションふうにビデオを作ってこのように売り出そうということをやっています。メッセージは、「ただ居ますよ」ということだけなのです。それでも通信としては非常に役に立ちます。実際にオフィスと家庭を繋いで実験を行い、電話するほどではないけれども「居ますよ」と「気が付いていますよ」というメッセージが伝わるということを確認しています。

 最後に、私は物理系の学科にいるものですから、そこで何か「抜け落ちたもの」は無いかということで問題提起をさせていただきます。一つは、記号化して数理的に物を扱うというのが科学的方法論ですが、例えば「力」というのは教科書の中では「F」という記号で表し、「速度」は「α」で表します。運動方程式というのは、これに従って「物は動く」ということが言われます。ここで大事だと思うのは、そのスケールに関しては全く自由になっていて、力の大小に関わらず「この式に従う」という意味で非常にユニバーサルな標識になっていることです。ここに「抜け落ちたもの」があるのではないかというのが、常々考えていることです。
環境芸術学会でお話させていただくときに思っていたことはこういうことなのではないかと思ったのですが、これはまさに物理が成功した一つの理由でもある訳です。つまり一般化して統一量に向かうことができたということがあります。あるいはディジタル化で非常に象徴的なものは、マウスでポインティングしてスイッチを点けるというのが普通になってきていますが、このスイッチは1万ボルトのスイッチも0.1ボルトのスイッチもまったく同じです。感覚が全く変わらない。これがまさに「F」という記号で表した意味です。それから核ミサイルの発射もテレビのスイッチのボタンもまったく同じ操作であるということです。つまり、何の量的な違いを見出せないのが良いところでもあり非常に問題でもあるのです。
つまり身体から脳にすべてを移してしまったという気がします。それは物質と情報をうまく分離することができるようになるということで、非常に物事がある意味で解りやすくなりました。逆に言うと、宇宙の法則を考える時に人間の存在のことは考えないのが普通の宇宙論です。つまり客観的であるということで、自他非分離という感覚を無くすことによって成功してきたのが、今の自然科学を中心とする科学的方法論だと思うのですが、これを救うのは、文化とか芸術にあるのではないかと思います。
芸術とテクノロジーというのは非常に深く結びついていますので、まさにこの影響を十分に受けていると思います。たとえば複写メディアと身体性の芸術ということがあります。つまり、絵画が画集になるのは印刷技術ですが、これは非常に便利で誰でも色々な絵を見ることが出来るようになりました。しかし、美術館に行って実際に絵画を見ると、100号の絵と10号の絵が同じ変形A5判に入ることのおかしさに気付きます。それと同じことが音楽とレコードの間にもあります。つい100年の間に音が溢れかえり、音を聴いて好きな大きさにヴォリュームを調節できるというのは昔でいえば音楽ではないですね。このように複製が可能になったということで「1回しか起きない」ということが無くなって来ているかも知れません。
それから芝居や映画、テレビになるにしたがってスケールスクリーンになり、24インチで観ようと30インチで観ようとドラマはドラマだという時代になって来ています。これは一つの新しいジャンルを生み出していますから否定するものではありません。映画とか写真とかCGという新しい芸術ジャンルはこの中から生まれて来たのです。それらがある意味で共通しているのは、身体の相対化あるいは記号化のようなことです。それで本当に良いのかということで「体から脳へ、脳から体へ」という方向が一つの重要な問題ではないかと思います。
環境芸術というのはそういう意味で「身体を意識する、身体に気付く」ということをさせるための大事な分野ではないかと思います。そういう意味では、ロボティクスもまさにそうだと思っています。ロボットというのは身体を持ったコンピュータであるということで、身体性を持ったIT技術として非常に大きな役割を持っています。そしてロボットそのものが、メディアとして、インテリアでもありエクステリアでもあり家具でもあるという様に使えるのではないかと思っています。

柳 どうもありがとうございました。まさにこのシンポジウムのテーマとしたいところのお話をしていただいたと思います。「シンポジウムの主旨」に、科学技術の発達が知覚の同時性を希薄にしているのではないかという事を書きました。例えば印刷やディジタル化に伴うCDやコンピュータなどのメディアに載せる技術の発達は、一つの表現が世界の隅々まで行き届くことを可能にしましたが、オリジナルの複製化に伴って情報が均一化し身体性が希薄になっていったのではないかと私も考えています。
それと科学や芸術が人をどこに導くかということですが、もともと科学者と芸術家は対象を見る達人として、ある現象に関わり見たり感じたりしたものを形にして多くの人に知らせるという使命があったと思います。人に対して科学者や芸術家による新しい体験の提供が「豊かさ」への導きになっているのではないかと思いました。
では、続きまして松原先生のお話をお願いいたします。

松原 松原です。大体言いたいことは橋本先生に言われてしまったようです。ロボット研究者の考えていることは概ね同じだということです。自己紹介代わりに、今年の「愛、地球博」でエンターテインメントロボットのデモを行いましたので、その様子をお見せします。

(ビデオ)
吉本興業の善次郎さんというコメディアンにシナリオを依頼して「松健サンバ」を参考に振り付けを行いました。これは、一応人間とロボットの掛け合いというのがテーマです。万博では6月頃にロボットミュージカルと称して、10分間のショーを行っていました。
先程、エンターテインメントとコンピューティングと紹介していただきましたが、このスライドも橋本先生と表現が違うだけで、実は同じことを言っています。
科学技術というのがそもそも効率化重視ということで進んできて、その中でも20世紀後半というのはコンピュータが発明されてからは良くも悪くも情報処理技術というのが牽引してきました。「早いことは良いことだ」「大きいことは良いことだ」ということは、コンピュータを大きくするということではなくて、小さいものでも大きいものが入るという意味でどんどん小型化していくわけです。
例えば環境という話で言いますと、どこでもコンピュータ、ユビキタスという言葉が最近有名ですけれども、「ユビキタスロボット」あるいは「どこでもロボット」という概念があって、いわばインフラを整備するということに情報技術が突き進んできました。もちろんインフラを整備するのは良いけれど、それで何をするのかというと、人間の幸せ追求というものから少しずれてきたのかも知れないと思います。電子メールも便利ですけれども、電話とか手紙とかだったらもう少しゆっくり話が進んだのに、電子メールを一日何十通もやり取りしてぱっと話が進むのは本当に幸せなのかという疑問もあります。
もうそろそろ効率化は良いのではないかとも思います。物質的豊かさより精神的豊かさということです。そもそも科学技術も人間の幸せを追求していたはずですが少しずれてきたということを、世の中の多くの人は気が付いてきました。科学技術系の人も、遅ればせながら気が付いてきて、さてこれからどうするかということで、何人かの仲間と日本発世界に向けて「エンターテインメントコンピューティング」という用語を作りました。これは情報処理技術を用いて広い意味でのエンターテインメントを実現します。先ほど橋本先生の出されていた例は、私の定義からするとほとんど「エンターテインメントコンピューティング」です。
情報処理学会という、我々の業界の学会で「エンターテインメントコンピューティング研究会」もできました。情報系あるいは科学技術系の学会で「エンターテインメント」という語を頭につけるのは非常に珍しいのです。ですからようやく分かってきたということだと思います。
ゲーム・音楽・飲食・スポーツなど色々なコンテンツを対象として人間が楽しむことに情報技術を応用してコンピュータやロボットなどが支援をするのです。「エンターテインメントコンピューティング研究会」はそういうことを目的にしています。その基本となるのは身体性です。人間が楽しむ、精神的豊かさというものを楽しむというのは身体に根付いています。ロボットの研究者は昔から身体設計を行いますが、人工知能というのはロボットでいうと頭の部分をやる研究分野ですから、脳の方向に行ってしまって、環境を度外視するというところがありましたが、ようやく戻ってきました。
知能はそもそも人間側だけにあるのではなくて、環境側にもあると思います。それで人間と環境とがうまくインターフェイスが取れることというのが本質であると思います。最近の人工知能では知能は環境に埋め込まれている「エンベッディド」という言い方をします。先ほどのロボットで言いますと、人間とロボットの掛け合いなのですが、あれは人間側だけに面白さがあるのではなくて、ロボット側にもあるのです。人間とロボットのインタラクションという関係性にエンターテインメントが存在するのだと思います。
例えばゲームについても、プレイステーションがもうすぐロボット化するというのは私も同感ですが、マイクロソフトや任天堂が先に実現するかも知れません。今までのゲームというのはコンピュータのなかに閉じ込めてきたのですが、現在のアーケードゲームでは、かなり身体を使うものが流行っています。例えば太鼓を叩くゲームです。あれが人間の豊かさや楽しみの原点だと思います。実世界とのインタラクションというのが本質で、これまでのゲームというのはバーチャルな世界に行っていたわけですが、そこに身体性を引き戻したゲームというものを今研究しようとしています。
例えば自分の体の状態を生体信号として取り出し、見せてしまうようなゲームです。それによって他人も含めた外界とのインタラクションを実現します。そこで、我々のキャッチフレーズは「風を感じることのできるゲーム」です。言葉で言うのは簡単なのですが、その方法については現在の課題となっています。
例えば「屋外でやるゲーム」というのが一つあります。それを実現するためのデバイスとしてロボットが候補に挙がるのですが、そういうことを考えて行こうという傾向が出てきています。

 まとめですが、情報処理技術の発展でコンピュータやロボットは、ものすごい進化をして、ともすれば「人間対コンピュータ」「人間対ロボット」という図式で捉えられることがあります。将棋ソフトは私の専門領域ですが、ごく最近、将棋連盟が「プロ棋士は許可なくコンピュータと対局することを禁ずる」とのお触れを出したことがヤフーのトップニュースで流れました。そのような捉え方が普通なのだとは思うのですが「コンピュータもロボットも人間が作ったもので道具に過ぎない」のですから、それを調和させたいと思っています。
これは日本のロボット研究者がよく言う言葉ですが、東洋的日本的な考え方と合っています。万物に魂の宿る可能性の肯定は、二元論で世の中を捉えないという考え方と合っている、と思います。強引に柳さんの言う「導く」という言葉を使うと、コンピュータは当然ですが「人間を精神的豊かさに導くものだ」と改めて言いたいです。もちろん芸術はもともとそれを目指していて、そこに進んでいると思いますが、コンピュータやロボットは、やや外れた方向に行っていたと思います。少なくともコンピュータは外れていた方向を引き戻そうという動きが21世紀になって出てきたということだと思います。

柳 「ことに導く」ということで三人の先生方にお話いただきました。どうもありがとうございました。
お話の中に「共生」・「精神的豊かさ」・「導く」・「関係性」・「身体性」といったキーワードがありました。私自身もシンポジウムにあたって、「ことの行方」に関連して考えていたのですが、一つは人と環境のコミュニケーションについてです。例えば、人が自然環境の中にいて、身体性を伴うインタラクションに直面したときに非常に懐かしい気分になって嬉しくなります。それは、均一な環境に慣れてしまって、いつの間にか希薄になった身体性の実感が、自然環境の中で思い出されたからではないかと思います。そのような「身体性の回復」が「ことに導く」キーワードになるのではないかと思います。
環境芸術学会のエキスカーションで「芸術の森」と「モエレ沼公園」に行ったのですが、そこで今回のシンポジウムのテーマの答えがあるのではないかという作品に出会いました。ダニ・カラヴァンという人の作品とモエレ沼公園の海の噴水です。ダニ・カラヴァンの作品は、豊かな自然の要素を整理して再構築しているものです。

(スライド)
外観はピラミッドになっていて、内部の床下には雪が閉じ込めてあって保存されています。床の周りにはスピーカーが埋め込まれていて、森の中に仕込まれたマイクから自然の情報を集めて再生しているのです。ここでは自然の持っている豊かな情報を整理して再構築しています。この中にいるとリアルタイムで川のせせらぎの音が聞こえ、鳥の声が聞こえます。ここで佐藤先生、ダニ・カラヴァンの作品について解説をお願いしてよろしいでしょうか?

佐藤 今、言われたことに付いて、私は必ずしもその様には思わないないのです。ダニ・カラヴァンは一種戦略的な作家でもあって、空間の中に様々な意味を折り込む作家なのです。様々な象徴性が幾重にも重なって入っているのです。そして自然との関係に折り合いを付けるような仕事をしている作家だと私は考えています。だから自然をキャッチするための装置では必ずしもない。そこに自分の西洋的な知恵が培って、ある自然を支配するといったような部分がどこかにあるのです。私はこの作品を見て大きな葛藤を覚えます。
では、他に違う例があるのかと言いますと、先程、川俣の話をしましたが、自然の中にもっと共生させるような仕事があっても良いのではないかと思います。ダニ・カラヴァンというのは自然の中に意味を込めて物を創っていくという作家なのです。むしろ私が環境芸術という事を前提にしてお話するとすれば、意味を剥いでいって、もっと自然に沿わせて進めていくというような仕事のほうが未来を開くような気がします。ダニ・カラヴァンは音や環境を作っていく作家でもありますが、どこか建築から発想しているようなところもあります。非常に興味深い作品ではあるのだけれども、必ずしも僕はすごいとは思わないです。

柳 凄いということではなくて、この作品は自然環境と人の関係性を非常にピュアな仕組みで体感させてくれるというところに興味を持ちました。そして、自然の中で人工的に自然を再構築したことで、改めて自然の豊かさに気付き、自然の豊かさを体感できるのではないかと思います。
橋本先生、松原先生にも、ロボットがどんどん人に近付いてくるというお話がありました。そこで、人に対して情報をどのような形で表すかというところにインタフェースの様々な工夫があると思います。また、「人に優しい」とか「好印象をもたれる」といったそれまでの科学技術にはなかった視点も必要になってくると思うのですが、その辺で何かお考えがあればお話しいただけますか。橋本先生、いかがでしょうか?
橋本 一つの方法は、人間をよく見て、いわゆる人間を思いやっているように思わせる装置を作るという方法があると思います。ただそれは、あくまでも真似の話で、物の作り方という意味でいくら精密に作っても「真似は真似」だということです。それでも役に立つことは多くありますので、それをやり続けることに意味もあるし我々もやってはいるのです。
例えば本当に心をもった機械を作ろうと考えたら、本当にはできないのではないかと思っているのです。一つは、複雑さがどんどん増えてくるということで、設計は何とか出来るかも知れないけれど、検査は出来ない。もう計算機はそういうことになっています。
例えば、ソフトウエアは不完全なまま堂々と出荷する初めての製品だと思います。「もし具合が悪ければ治しますよ」というものの売り方をやっているわけです。そういう意味で、時間的にも空間的にも知的にも限界があるだろうと考えていて、完全性を求めて詳細に設計して作るというのは、ナノテクが発達しても無理だろうと思っています。我々はもう一つ別の方法を試しているのですが、それは、詳細に設計するのを止めて、製造環境を設計するということです。要するに、種をまいてできたものを「どのように使うか考える」ということを試しています。
本当に人間が犬や猫と同じように思えるものというのは、そういうものではないかなという気もするのです。また、本当の生き物と同じようなものを作るために作るのではなくて、それができ上がる環境を作るという方がはるかに重要ではないかと思っています。そのためには様々なバリアーがあります。例えば、鉄とかアルミの体でシリコンの頭を持っているようなものでは、たいしたものはできないと思っています。 今、化学反応に興味を持っていまして、薬を混ぜて配線もしないで何かでき上がってくるということを夢見て、ひとり学生がつぶれるかも知れないけど、それをやり始めていたりもします。そういう意味で、思ったとおりのものができる、ということが今までの工業的な考え方だったのですけれども、できた物をどう使うかということの知恵の方がはるかに重要ではないかと思います。ちょっとお答えとは違いますが、人に沿わせるための努力はもちろんやるけれども、その一方で別の努力もやっていかなければならないとも思っています。

柳 有難うございます。では松原先生何か?

松原 違う側面のお話をしますと、ロボットは日本ではまだ人気があって、万博でもロボット展にはすごく人が入りましたが、もう少し行くとバッシングになると思うのです。ロボットがなまじ人間に近づくと不快感や気味悪さが出てきます。ロボットの業界では「不気味な谷」と言う概念があるのですが、「不気味な谷」というのは、ある程度似ていると親近感が上がるのだけれど、それ以上似てくると親近感が落ちるという谷があって、そこをまた突き抜けると親近感が上がっていくというものです。つまり、人間にある程度似た姿と、見分けがつかなくなる程似た姿の間に、親近感が大きく落ち込む谷があるというのです。
そこを突き抜けるというのは人間でも動物でも不気味さを感じようがないくらい似ているということですが、技術的に不気味な谷を越えられるかどうかが難しいのです。また不気味な谷を越えるべきなのかどうかというのは社会的コンセンサスの問題としてあると思います。それを越えたということは、本当に区別が付かないということなので、それこそ環境にロボットか人か動物か分からない存在がいるということに対して、我々人間が許容できるかという問題があります。そんなにすぐではないですが、ある確率で人間が進化して来たよりはずっと早く、動物とか人間に近い機械というのが出てくる可能性があるので、それこそ人間のこちら側の問題かなという気がします。

柳 どうもありがとうございました。今日いろいろお話を伺って、科学技術の方もどんどん人に近付いて来ているということが分かりました。また、人と技術あるいは人と環境の共生が豊かさを実現する上でとても重要なのではないかと思いました。
最後にもう一つモエレ沼の噴水なのですが、これは理屈ではなく感動しました。最初に水が盛り上がって、かなり高くまで上がって行くのですが、自然のエネルギーをダイナミックに視覚化していて感覚的にすごいと思いました。迫り上がった水が一気に下りてくるのを眺めていますと、空に滝が出現したような錯覚を起こします。また、落下する時の水しぶきと風を肌で感じて、そこで起こっている現象を身体全体で感じる心地よさというものがあったように思います。
我々、環境芸術あるいは科学技術における活動をしていく上で、ダイナミックに身体に働きかける環境の構築が幸せで豊かな未来を切り開いていくのではないかと思いました。体感できる装置、自然に包込まれる感覚、意識しなくて居心地のよい環境や自然エネルギーとのインタラクションの実現などが未来の豊かさのキーワードではないかと思いました。
短い時間ではありましたがこちらのシンポジウムのお話は終わりにさせていただきたいと思います。会場にいらっしゃる方でこの機会にご質問があればお受けしたいと思います。

質問者 北海道大学の北村です。どうも面白いお話を有難うございました。結論として、人間と環境の共生であるとか、科学技術とアートのこれからの未来の融合のあり方ということについては、そのとおりだと思うのですが、一点気になるのは、環境と自然という二つの概念がありまして、自然という概念に替わって60年代から70年代にかけて、わざわざ環境という概念を持ち出して、議論を改めて、哲学でも倫理学でも芸術でも組み立て直さなければならなかったという状況があります。
それは、自然に対して人間がいて、特にヨーロッパの近代では、人間が自然をいかにも自由に利用していくというのが、いわば哲学ではデカルト以来のあり方でした。それに対する反省があって,環境という概念が出されてきます。そこで環境の中で人間の位置を考えてみますと、決して人間は環境の真ん中にはいない。人間がいるのと同じように、最近は雪虫もいますし、ミミズもいますし、いろんなものが環境の中で共生していると思います。柳先生のまとめにあった、ことの行方、人間の豊かさとか心の豊かさとかは大事なことだと思うのですが、でももしかすると、人間が豊かになることによって雪虫にとっては非常に辛い環境が出てくるかもしれない、ミミズにとってもそうです。それが巡り巡って人間にそのことの行方として回ってくるという事を考えないと、決してばら色の未来ではないと思うのですけれども。その辺はいかがでしょうか?

柳 どうもありがとうございました。そこのところは私自身も非常に感じるところで、私自身のテーマでもあります。
例えば都会の中に住んでいた時に、ホワイトキューブの部屋の中に何か自然を取り込みたくなる。自然は良いなと。そして自然の豊かなところに静養に行きたくなるのですけれど、そこに行った時に、自然に憧れてきたにも拘わらず、自然の真っ只中にいることに耐えられなくなって、また都会に戻りたくなるといったようなことがあります。これは人間の身体自体に非常に人工的な部分と自然な部分があるために、結局はそのバランスをとって生きていくしかないと思うのです。私自身そのことをリアルに考えてしまうと生きていくのが嫌になってしまいます。
例えば「自然に帰る」といった時にどこまで帰れば良いのか、洞窟で暮らす所まで帰れば「自然に帰る」ことになるのかと疑問を持ちます。一方、人工的に環境が良くて居心地の良いと思われるところに居ても、窓を開けたくなったり、絵を飾りたくなったりして、そこに無い環境を欲しがってしまいます。人間の身体は自然と人工の両方の部分が共存している進化途上の身体ではないかと思います。結局のところはそこでも共生してバランスをとっていくしかないのかなと思っています。
今、先生がご質問されたように環境は人間が中心ではなくて、雪虫にとっての環境というのもありますし、そういったところに着目して提示していくというのも、私自身の作品作りのテーマになっています。やはり、身体性や人工と自然の共生に於ける関係性に付いて常々考えています。

橋本 全く違うことなのですが、先程申しました、詳細に設計するのは止めようという中のバリアーの3番目として、アシモフをいかに越えるかというのがあります。要するに、ロボット三原則というのがありまして、人間に危害を加えてはいけないとか、反抗してはいけないとか、非常にナイーブな意味のロボットに対する原則です。これを越えないと、本当に自立したロボットというのはできないだろうと思っています。
つまりそれは先程の環境問題、環境と人間の関係で言ったように人間が中心ではないんだ、ということをもう一度我々が確認しないと本当のロボット、人間に近い、あるいは人間のように自立したロボットはできないのだということが、強い足かせになっているのです。そういう意味で、人間をいかに端に寄せるか、こういうことを言うのは危険だと言いながらいつも言うのですが、ヒューマニズムをいかに越えるかということは、ロボティックスの立場から言っても一つの大きな問題だし、ご指摘がありましたように、環境との関係で言ってもやはり同じ問題があるのではないかと思いました。

柳 どうもありがとうございました。時間もオーバーしているようなので、今日はこれで終わらせて頂きたいと思います。

司会 パネラーの佐藤先生、橋本先生、松原先生、それからコーディネーターの柳先生、とても有意義なお話ありがとうございました。芸術とテクノロジーの関係から身体性あるいは共生というとても重要なキーワードですとか、あるいは最後の話にありましたような、人間中心の環境というキーワードについての非常に重要な示唆があったなと、定義がなされたなと思っています。もういちど4名の先生方に拍手をお願いします。